大それた事はない

ひとりの人間の人生を本に例えて、その経験を文章に起こそうとする。
人によっては辞書ほどになったり、あるいはタブロイド紙のようになったりして、自分の人生で見てきたもの、聞いたことが、厚みとして視覚化されている状況を想像してみる。

さて、自分を表す本の厚みは如何ほどか。その章立ては。最もページを割いている記述は。

これらは、筆記者によっても異なるかも知れない。
自分自身であれば、とうの昔、まだ喋ることもままならなかった頃のことなんて覚えてはいないし、特別印象的ではなく、起伏に乏しい「毎日」と呼ぶに相応しい日々の仔細に至っては、へたをすると今日のことだって思い出せない。

では、思い切って、書き手さえも想像の中に生んでしまう。自分が誕生したときから今まで、常に傍らで回り続けていたビデオカメラのような、できごとの内容に関わらず、すべてを逐一記録していた筆記者が書き手だとしたら。

執筆中とはいえ、それでも特別面白い本ではなさそうな気がする。

では面白くするためにはどうするか。それにはやっぱり、登場人物の生き様に起伏が必要だと思う。
読む人が共感できる喜怒哀楽が有り、先を知りたくなるドラマがあり、結末を見なければ気が済まないという渇望を生むような生き様が。

年月を積み重ねたことだけが生む厚みではなく、経験が生む厚み。文字数や装丁で稼ぐ厚みではなく、物語が生む厚み。

ただ目で追うだけの読書ではなく、周りの風景や音をかき消して、頭の中に別の世界を生み出す読書を可能にするような、そんな物語を書き綴った本。

斬新な設定なんてなくても、ありふれた出来事を書き綴っただけであったとしても、読まずにはいられない本になるように、自分の人生も少しは読み応えのあるものにしようと努力してみることが、僕の本の新しい章の始まりになるかも知れないと、ほんの少しだけ思っている次第です。おわる。